こんな時間にブログを書いてる僕。
午前4時。眠れないんです。
悩みが深くて。
来週はすぐqvcのオンエアが続いているので、体調を整えないといけないのだけど。
でも、悩みといっても、幸せな悩みかも。傍目には幸せでない悩みだと思うのですが、僕にはこれも「チャンス」のように思えて。わくわくする。自分をこんなに見つめ直してるし。
来年ちょっとスローダウンしたら、何しよう?どこ行こう?どんな挑戦ができるのかな?どんな人と知り合うのかな?
自分の可能性は、こんなにも無限なんだ、ということに改めて驚き、また嬉しくて。父さん母さん産んでくれてありがとうって感じ。人の可能性って無限なんね。また苦しい時こそ、新たな道が見えてくる。
周りへの感謝は決して忘れず、でも自分をもう見失うことも、犠牲にすることもない。
仕事のペースに余裕が生まれて、自分らしさを取り戻した僕は多分最強やん。
まさに僕が思い描いた50代になったるで。
まずはとにかく、今年のqvcのお仕事を一つ一つ、丁寧に心を込めて走り抜けます。ショー一つ一つを、必死で作り上げた商品一つ一つを僕自身が自らプロデュースしてやってるということを、しっかりとあからさまに証明すること。僕は間違っても紙切れ一枚に「監修しました」」のサインをしてるだけの借り物ゲストじゃない。
僕が最も怒ったポイントはそこなんだから、まずはそこを見せつけてから次に行く。
僕にはプライドなんて簡単に呼べるようなものは持ち合わせてないけど、多分これがその「プライド」なのかもしれない。
男はプライドを傷つけられるのを最も嫌う、とは有名な言葉やけど、僕も男やったな。
10代そこそこで東京に飛び出した少年は、元々は食べることが大好きな子供でした。残る写真には、いつも何か食べ物を持ってるものばかり。親戚からは、笑うと目がなくなる子、演歌歌手みたいと言われてましたが、父は「お前の笑顔に嫉妬してるだけや。お前が笑っとる限り誰にも負けへん。お前は笑え」とよく言われて育ちました。

思春期を迎え成長した少年は、逃げるように田舎を飛び出しました。人生の勝負に出たのです。笑うことをしばし、忘れた時期が始まります。

ど田舎ものが、慣れぬ都会で、女性ばかりの職場での酷いほどの嫉妬といじめを生き抜いて、住むところもままならなかった少年はいつしか料理研究家として表舞台に飛び出して活躍するように。ひょんなきっかけで倍音と言われる響きを持った声、の持ち主であったため大手のレコード会社から「歌手」としての才能を見出されボイストレーニングや作曲を学び危うく契約にまで。大きな力で方向性が変わりかけても本人は歌手じゃない、料理人、との考えを曲げず、事務所に所属することもなく独立を守りました。幸い、料理研究家としていきなり売れたため、結果いろんな人が寄り付き周りの大人にたくさん騙されながらも、守ってくださる大人もたくさん。それには感謝の言葉しかなく。ずっと研究を続ける美容健康食を武器に、綺麗を幅広く手がけ始めました。全く未知の芸能という世界で、しんどい思いをしながらも、自分の料理と、講談社の副編集長が「無敵の笑顔」とおっしゃってくださった「笑顔」を最大の武器としました。日本の大手企業多数がスポンサーとなり名前を連ねました。商品開発やレシピ開発に合わせて、雑誌の連載が何本も入り、トークショーやイベント、民放各局のテレビの仕事が途切れず僕は忙しさでくちゃくちゃに。自分の研究もこなしながらの話でした。それでも雑誌やテレビではニコニコした僕があちらこちらに。


心は乱れ、自分がどこにいるのかもわからないほど忙しくなりました。笑うのは、仕事とカメラが回る時だけ。テレビや雑誌のレシピ提供を数種類並行してこなしながら立て続けに出版が決まる料理本のために各100レシピは新しいレシピを開発しなければなりません。その間に取材を受けたり、撮影が入り、企業やレストランのレシピ開発やイベント出演が続きます。食材の手配や、担当してた女性誌と男性誌の連載の原稿も書かないと。男性誌の方はスタイリングも自分で手がけたため撮影で使う器関係も手配しないと。1日24時間じゃ全然足らない。睡眠時間はもともと寝ないタイプでしたが、もう眠れても2時間程度となりました。結果、カメラが回るとストレスで血が巡らず、目の視力を失い、耳が聞こえなくなり。2年くらいろくに仕事ができなかった時期も。当時の僕は、写真を見てもとても疲れた感じ。でもカメラが回ると、笑顔を振りまきました。一人になるともう何もしたくないほど消耗。文化人でこれなら、芸能人が大変なストレスというのは理解に安い。マスに出るということの快感と孤独を同時に味わうことに。


それでも15冊もの著作本を大手出版社より世に贈り出し、僕の仕事が大きく認められ、2011年には世界のスーパーシェフ21人の世界イベントに日本から初、それは日本にとどまらずアジアから初、のシェフとして初めて、アジアから招かれる、という快挙でした。アルゼンチン大使館から快挙ですと言う喜びの連絡をいただき、片道36時間かけて、アルゼンチンへ。あちらのテレビや新聞の取材もどんどん入っていました。そのために急遽スペイン語を学ぶ羽目に。あちらのテレビでは通訳なしでスペイン語でやりたいというこだわりでした。焼き付けるような太陽、大きな大陸。世界から集まったスーパーシェフたち。そこで自分が井の中の蛙、と知りました。僕の目は、世界へ。アルゼンチンでそのイベントに招待されていて知り合ったアメリカのヴォーグ、(VOGUE)というファッション雑誌の編集者たちの「一緒に仕事しましょうよ!あなたならニューヨークで通用する!スタイリッシュだし、独特の世界観があるから、絶対にニューヨークとロスで成功することまちがいないわ。ただしアメリカの田舎はだめ、保守的だから。ニューヨークに来なさいよ。エージェントもいいのが2つあるから、ぜひ紹介させて」との強い助言をいただき、僕はニューヨークで彼らと仕事をしたいと思いました。

でも、彼らが紹介してくれたエージェント(アメリカでは、エージェントに所属なしで仕事は難しいとのこと)と会うためにとった飛行機が飛ばなかったり、リスケしての2回目はそれがまさかの乗り継ぎであるパリまでしか飛ばない、という、アクシデントに見舞われ。でもそれがきっかけでパリまで飛んだ僕は、パリと恋に落ちました。これはきっと何かの縁、と思い込み、アメリカは行かないと決め、2012年拠点をフランス、パリに移し、そこから世界を相手に勝負するように。手がける企業に一気に外資系が並び、料理の幅がさらに広がり、フランス政府より、いわゆる日本で言うところの人間国宝に認定された超一流のシェフにフランスで直接指導を受けました。

修了書をもらって、それでもそれらの肩書きを使うこともなく、引き続き「料理研究家」として仕事を重ねます。
ちなみにフランスで一緒にいた人たちは、大阪のあべのだったか、辻調理師専門学校だったかの教授たちや、料理長、または10年以上のキャリアを持つフランス料理人。料理人を育てる先生方やプロ中のプロで、彼らの料理に対する情熱も学ぶことができ素晴らしい経験に。皆無事通過。初日、今外で撃ってきました状態のまんま鳩、を渡され、フランス語で、はい、さばいてね、と言われた瞬間の衝撃。少し使うソースを、3日かけて丁寧に丁寧に仕上げるあの深み。

僕の料理はアジアだけじゃない、と自信をつけた瞬間でした。またパリでの生活は新しい衣食住の提案にと仕事の幅がさらに広がりました。自分の感度と視野が大きく開いた、というか。
ただし、僕は世界の21人のスーパーシェフに日本から初めて参加が許されたシェフ、などの肩書きは使うこともなく。それだけで仕事が取れるのにと言う周りの言葉は無視しました。
肩書きで仕事してたまるか、と言う僕なりの今思えば「プライド」だったのかと。実力勝負。それが功をなし、料理や商品開発にとどまらない、マーケティング、ブランディング、アートディレクションなど、企業の売り上げを大きく左右するほどの重要な企業のディレクションをも手がけるようになりました。受けた仕事は失敗しない、ジェイさんに頼めば数字が伸びると言う伝説はここから始まります。
そして、qvcでの仕事はもう始まっていて。
初めボランティアくらいにしか考えていなかったのに、いつしか、qvcジャパン史上ナンバーワンの売り上げを叩き出すように。それはqvcジャパンにとどまらず、qvcインターナショナルでの最高記録達成でもありました。快挙です。本人は、そこに大した重さを感じておらずマイペース極まりなく。自分が考えること、研究して来たことを商品という形にできることの面白さと喜びがありました。僕自身は基本出演料のゲストで全く仕事量に見合った報酬などもらえず、正直、なんの実感もなかったし、今もない。qvcの顔とおだてられても、何の実感もほんとにない。だから実情を知らない他のゲストさんから羨ましがられても本気で困る。一体何が羨ましいの?新しいゲストさんなどはゲストトレーニングで「ジェイさんみたいになりたい!」とみんなおっしゃると聞いたけど、「僕みたいになっちゃダメ。出演するだけじゃなく、商品企画から商品開発、ブランディングからショーの内容まで何から何まで必死でやって自分が消耗するだけで大した収入にはならないから」と教えてあげたい。それでもお客様とのつながりと言う大きな喜びが得られます。

そして今日に至ります。

また新たな自分への挑戦。
これまでの僕の歴史は、ここで終わりじゃなく、ここからがスタート。始まりです。今まで必死でやってきたことは、間違ってない。
僕がこれからどう化けてゆくのか(妖怪じゃないよ)どうぞみなさん、一緒に楽しんでくださいね!