贅沢とはとてもシンプルであるべきだと思います。逆に言えば、シンプルこそ贅沢であるべき。本当のシンプルは寂しいではない。
実際には単なるその手の体裁だけのシンプルは溢れているのですが。
考えてみれば僕の仕事はそのシンプルイコール贅沢であることをいかに表現できるかと言うところでもあります。
例えばローションパベル。箱裏の原料を見るとわかるように、あれ?これだけ???と言う無駄を一切排除した極めてシンプルな原料であれだけのとびきり贅沢な化粧水に仕上がっています。
単なるシンプル化粧品とは次元が違うと自負しています。
僕が目指してるのはそこ。食品でも限りなく添加物を減らそうとするのはそのせいです。母親が丁寧に地元で取れた旬の新鮮な材料を使ってさっとこしらえてくれた料理が僕の原点です。それはどんな三ツ星レストランの料理よりもはるかに「贅沢」でした。
僕には子供の頃の記憶がほとんどありません。でも家族旅行で父が連れて言ってくれた京都で、お寺のすぐ側でいただいたおけうどん、ただのお湯の中にただうどんが桶に入って出てきてそれを少量の薬味とめんつゆでつけて食べる、と言う極めてシンプルな料理でしたが、京都の雰囲気と空気感の中でいただくそのただのうどんはとても贅沢に感じた記憶があります。
それはそのまま大人になって、パリに住むようになっても続き。
カフェでいただく一杯のドリンクが、この上なく贅沢に感じます。若い頃は、ドリンクを選ぶ贅沢すらなかった僕には、その時飲みたいものを選べることすらとても「贅沢」
僕はブランド品やお高い車、高級料理をみて贅沢を感じたことがありません。
仕事でそれらに触れることが多いのですが、高級料理を見ても母親の作った丁寧な料理に比べたら普通。と言うか普段自分がさっと作るなんてことない料理の方がいいとすら思います。
料理は自分ですると、その時の気分で同じ料理でもいくらでも変化をつけられます。でも三ツ星レストランだと出されたものをいただくだけ。
その時、素敵な仕事仲間との席だったら、その時間こそが「贅沢」
レストランの料理そのものに贅沢は感じません。ただそれでも時々、そのシェフの心使いを感じるようなお店も実際あるのですが。そのお店の姿勢というか、心配りが「贅沢」
でもそれはまれですが。
とにかく贅沢イコール金金キラキラ、という概念が僕は嫌いです。
贅沢ができない、と言わないで。暮らしの中に、自分の「贅沢」を見つけて欲しいと思います。
今の時期はコロナで難しいですが、例えば近くの公園やお寺に、人のいない時間や夕暮れ時に出かけて、その朝の空気や夕方の光の美しさを独り占めして座って見るというのも「贅沢」
朝家族が起きてくる前に一人で飲む、お気に入りのカップに濃いめに丁寧に入れた一杯の僕のゆず茶やショコラショーを飲むのもとても「贅沢」
大好きな友達と一緒に過ごす時間も「贅沢」
人生の中の一つ一つを、自分の感覚を研ぎ澄まし、丁寧に行うことで、感じることで、人生はもっと豊かに「贅沢」になると僕は思います。
贅沢な物がないからお金がないから贅沢はできないわけじゃありません。
僕自身、東京に出てきた時の所持金はまさかの四千円程度。交通費がなくてバイト先にも片道2時間かけて神奈川から東京まで毎日往復ずっと歩いていました。合計5時間。炎天下だろうが雨だろうが関係ありません。
それでも僕の心はとても豊かでした。道端やよそ様のおうちのプランターに咲くその季節の花を見るのも楽しみで、犬とか猫とかいると挨拶する楽しみもありました。東京に着けば名だたるブランドショップのウインドーを通りすがりに眺めるのも「贅沢」
買えなくても全然よかった。
優れたデザイナーたちの感性や職人の技をただで眺めることができたのですから。
また店舗ごとに工夫されたディスプレイを眺めること自体が勉強になりました。まあブランドに関して言えば、僕はブランドを崇拝することはありません。むしろ逆にブランドに僕が崇拝されたいわ、という感じ 笑笑 僕に似合ってるから、丁寧に作られているから買うことはあれど、ブランドだからで買うことは全くありません。
世間でコロナにより大きな影響を世界中が受けている中、今改めて、贅沢の定義を見直すことも必要かもしれません。
買い物に行かなくても物を買わなくてもおうちでずっと過ごすことになっていても。
あなた自身の贅沢は、自分次第できっと手に入れられることでしょう。